“そうじゃない”ルーツを求めて

最近、複数の知人から問い合わせがあり、これまであまり関心のなかった実家の屋号と家紋の由来を調べてみることにした。

図書館に通うこと数日、この分野に関する大きな辞典や研究書を紐解いてみたが、ピタッと当てはまる記述はなかった。歴史上の人物でも著名人でもないのだから、当然と言えば当然だ。なんとなくこうだったのだろう、というあまり役に立たない状況証拠的なものがいくつか見つかっただけだった。本当に知りたければ、帰省した時に本寺を訪れるか、本家筋を頼って話を聴かなければならないだろう。

ただ、今回、このような御縁で家紋や姓名の由来を初めて調べてみたが、正直なところ、専門書を読み進めるにつれ、どうでもよいという思いの方が強くなった。

なぜなら家系によって知りうる「ルーツ」なるものは、自分を家族の中の系譜に閉じ込めてしまい、その系譜の外にある他者との分断や垂直的なヒエラルキーを再生産してしまう弊があるからだ。ある人にとっては権威付けの根拠になるが、別の人にとっては差別の温床になる。それは、私が故郷の生活の中で育んできたルーツの感覚とは全く相容れないものである。

私が自身の「ルーツ」に関心を持つようになったのは、学生時代に読んだアフリカ、中南米、東欧の文学作品を通じてだ。エメ・セゼール、エドゥアール・グリッサン、フランツ・ファノン、エドゥアルド・ガレアーノ、ガブリエル・ガルシア・マルケス──ヨーロッパ植民地主義の支配の構造と向き合うこれらの作家が、失われた郷土や祖国の文化とアイデンティティを文学空間の中で再想像しようとするとき、あるいはミラン・クンデラが小説『Ignorance』においてノスタルジーと帰郷の狭間にある「距離」を主題にするとき。その時に想起されるルーツの感覚。

帰れない場所に向けられた文学的想像力は、記憶とリアルが混在する非線形の時間のテクストを織り成して、自らの内面の深部に多元的なルーツの痕跡を蘇らせる。それらのルーツは、ときに家族の歴史を辿りつつも、その系譜の外に飛び出し、彼らが生きた地域の生活誌として根付いていく。支配の構造に抗い、自己を解放していくために。自由の表現としてのルーツというものがあるのだ。

私が故郷の生活を通じて得たルーツの感覚は、まさにそのようなものだ。数世代かけて同じ地域の中で生活してきたその時間の痕跡が、空間的な広がりをもってコミュニティの中に根を下ろしている。その空間も一元的なものではなく、陸や海、半島や島など様々な地点から描かれる異なるスケールをもった多次元的な空間の重なりあいとして成立している。

家系によって表現されるルーツが閉じられた垂直的なものであるのに対して、地域の中の生活経験から得られるルーツの感覚は、根源的に開放的かつ多元的だ。それは同じ地域に暮らす他者──ヒト、生き物、モノ──と常に繋がりながら変容し続ける多様体である。地域にアイデンティファイするこの多元的なルーツは、日常生活の中でいつも意識されるものとは限らないが、外からやってくる開発の圧力に対面した時、内発的な声となって覚醒する。どちらのルーツも関係的であるには違いないが、その様態と意味するものは大きく異なる。

拙著『カタツムリの知恵と脱成長』で表現したかったことの一つは、地域にアイデンティファイする中で獲得されるルーツの感覚は、決して一つの家族、一つの伝統、一つの文化、一つのアイデンティティに収斂するものではないということだ。ルーツは根源的に多元的だ。空間軸においても、時間軸においても。そのことを、特に第3章で伝えたかった。

地域にアイデンティファイすること、その行為を通じてルーツの感覚をもつこと、それが自己を多元化していき、自由にしていく。「ルーツ」という言葉には単一的で閉じたイメージ、束縛するようなイメージがつきまとうので、逆説的に思えるかもしれない。しかし、“そうじゃない”ルーツというものがあると、ずっと考えている。考察は続く。

中野佳裕

2021. 3. 30