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研究者。PhD。専門は社会哲学、開発学、平和研究。社会発展パラダイムを問いなおし、持続可能な未来社会を構想するコミュニティ・デザイン理論の研究を行っている。脱成長、脱開発、トランジション・デザインがキーワード。 Researcher: Areas of specialization are social philosophy and critical development and peace studies. Working on community designing in line with the ideas of degrowth, postdevelopment and transitions design.

庶民のしたたかな自律性

太平洋戦争終了直後、渋沢敬三と宮本常一は日本各地の農村を訪れ人々の暮らしの現状把握に努めた。二人が最も印象を受けたのは、どこに行っても、「やれやれ、これで仕事ができる」と黙々と日常の生業に戻って汗水流して勤勉に働く人々の姿だった。まるで戦中の統制がなかったかのように・・・。「これで日本は大丈夫だ」と二人は安堵したという。このエピソードは、戦中の全体主義の時代においても日本の庶民の世界が完全には自律性を失っていなかったこと、むしろ庶民は国家に対して「したたかな距離感」を何らかの方法で維持していたことを物語っている。そのような庶民の世界は当時、国家と個人が直接つながらない、コモンズの豊かな世界でもあった。
 緊急事態宣言が発令され、その影響はパンデミック終息後の社会の仕組みを大きく変えるであろうことが様々なメディアで懸念されている。敬三、常一がかつてみた日本の庶民の世界のこのしたたかな自律性を、我々は未だ持っているだろうか。持っているとすれば、それをどのように活かしていけばよいだろうか。また既に失ったとすれば、なぜ失ってしまったのだろうか、それを再生するにはどうすればよいだろうか。この一連の問いを今から考えていくことが、日本の未来を考える際の鍵となるのではないだろうか。
2020年4月8日

社会の溜めを維持するために

感染症の世界的大流行(パンデミック)は30年から40年周期で起こると言われている。1968年の香港かぜ以来パンデミックは起こらなかったことを考えると、新型コロナウイルスの流行は、ある意味、避けられないものだったと言えるかもしれない。興味深いことに、英国の環境文学者ヴァイバー・クリガン=リードが2018年に出版したベストセラー『サピエンス異変』(飛鳥新社、2018年)(原題──Primate Change: How the World We Made is Remaking Us)に、感染症の流行がそろそろ起こってもおかしくないと指摘する一文があることだ。

そして今回の感染症が終息しても、数十年後には新たな感染症の流行が起こるかもしれない。そしてまた数十年後も・・・。

私が現在最も心配しているのは、今回の新型コロナウイルスの対応で、社会のエネルギーというか溜めのようなものが擦り減ってしまうことである。現代社会は賃労働に基づく労働社会であり、私たちはその中で消費主義以外の選択肢しか与えられていない。そして経済成長優先の政策の結果、労働市場は不安定化し、社会の格差は拡大している。本来は社会の活力や結束が損なわれないように政策を行うのが政治の役割なのに、政治は不公平なシステムを後押ししてきた。今回のパンデミックは、社会的連帯の基盤が弱まった経済社会構造を直撃し、非正規雇用者、一人親世帯、自営業者、芸術家など、周辺化されている人々の生活を直撃している。

今回のパンデミックを何とか乗り切ったとしても、その後に社会の活力や結束を維持することができるだろうか。社会がこのままますます分断してしまわないだろうか。そこに現れるのが国家と市場経済による開発主義であったとしたら、日本の未来はどうなるだろうか・・・。そういうことが心配なのである。

新たな感染症が再びやってくることを想定して、現在の危機をどう乗り切るか、社会の溜めをどう残していくかを考えてみたい。

2020年4月3日