セルジュ・ラトゥーシュの『脱成長』(白水社クセジュ、2020)が刊行されて1ケ月が過ぎましたが、この間、著者がフランス語やイタリア語で刊行した過去の著作と照らし合わせながら訳書を何度も読み直す日々を過ごしています。
訳書を読む度に知らされるのが、ラトゥーシュの脱成長論の原点が、開発パラダイムの文化論的批判にあるという点です。彼の脱成長論はエコロジー経済学の一変種ではありません。その理論的地平は、地球環境問題に対する政策論的議論に収まるものではなく、もっと視野の広い人類史的射程から語られています。
「あとがき」でも解説しましたが、その六〇年近くにわたる研究生活において、ラトゥーシュの視線は常に、開発主義がもたらす生存基盤の破壊、ならびに消費社会のグローバル化による生活の均質化と文化の多様性の喪失に向けられています。
かつてラトゥーシュは、1989年に刊行した『世界の西洋化』(L’occidentalisation du monde, Paris, La Découverte, 1989)において、人類学者ピエール・クラストルの「民族文化抹殺(ethnocide)」テーゼを引用しながら、開発とグローバル化が諸文化の社会的想念にもたらす(精神分析学的意味での)〈抑圧〉を分析していました。この事実からわかるように、彼の脱成長論は、消費社会の〈抑圧〉のシステムから諸文化の自律性──持続可能な生活づくりの知恵や技法(アート)──を解放していくことを目指しています。
地球環境問題に関するラトゥーシュの議論は、人類学と精神分析学を援用した文化論的な視座から提出されています。気候危機に対する対案も、機械論的・技術至上主義的な対案に陥らないように、思想史・社会史の双方から様々な目配りがなされています。なかでも開発の犠牲者に対する配慮や連帯感、地域の文化や自治の尊重は、彼の脱成長論の核にある問題関心として、終始一貫してブレません。
昨今、気候変動対策へ向けた国際協調の加速化を求める声が様々な社会アクターから上がっています。人類の持続可能な生存を保障するために各国政府が実効性のある政策を実施することは、もちろん重要なことです。しかし、屡々この種の議論においては、脱石炭・火力発電が声高に主張されても、原子力発電に対する立場は曖昧で、論者によっては原子力発電をパリ協定の1・5度目標達成の手段として部分的ないし全面的に容認する声も出てきています。
訳書を読めばわかるように、原発政策に関してラトゥーシュは、その中央集権的な開発体制、情報の不透明性、潜在的リスクの甚大さを考慮した上で、明確に反対の立場をとっています。また、遺伝子組み換え技術の開発にせよ、原子力エネルギー政策にせよ、科学技術に対する過度な信仰に対して慎重になるべきだと主張しています。
著者は、1995年に『メガ・マシン──テクノサイエンスの理性、経済理性、進歩の神話』(La Mégamachine: La raison technoscientifique, la raison économique, et le mythe du progès, Paris, La Découverte, 1995)という本を刊行していますが、それ以降、「持続可能な開発」の名の下で技術至上主義的な環境政策を追求することの危険性や矛盾、とくにそのような政策が諸文化のもつ知恵や生活の技法を喪失させる危険性について、一貫して懸念を示し、批判し続けています。
では、技術至上主義に陥らずに持続可能な社会へ移行する道は存在するのでしょうか? ラトゥーシュの答えは、Yesです。2001年に『経済理性の非理性──効率性の妄想から慎重さの原理へ』(La déraison de la raison économique: Du délire d’éfficacité au principe de précaution, Paris, Albin-Michel, 2001)を著して以来、著者は近代合理主義哲学と政治経済学を生んだ「北西ヨーロッパ・システム」とは異なる思想の水脈を、ヨーロッパの〈南〉、そして世界システムにおける〈南〉の歴史の中から再発見しようと努めています。
この〈南〉の思想への傾倒は、日本の読者の中ではあまり注目されていませんが、ラトゥーシュの脱成長論の基礎を成すものです。今回の訳書においても、西洋近代とは異なる脱生産力至上主義的な思想文化の中から持続可能な生活の知恵を学び直す道が、第4章を中心に議論されています。したがって、彼の脱成長論は、その最も深層の部分において、世界システムを構成する「近代」の物語構造を「内側からめくり返す(inversion)」戦略を通じて、資本主義的ではない社会への移行を構想しようとしているのです。(ちなみにこの視座は、人類学者デイヴィット・グレーバーの『民主主義の非西洋起源について』以文社、2020、と通奏低音を成すものです。)
ラトゥーシュのこのような立ち位置は特異であり、欧米の通俗的な資本主義批判の潮流からはなかなか出てこないものです。欧米の左派の反資本主義論者の中には、科学技術開発の加速化とその経済・社会開発への応用によって、気候変動を解決しようという考えがまだまだ主流です。
資本主義や消費社会の持続不可能性を、「開発」を巡る様々な問題群を通して見ているからこそ、ラトゥーシュの脱成長論は機械論的な対案を避け、文化の多様性にこだわり、「生活世界の自治」や「地域主義」を中心に議論を展開しているのだと言えるでしょう。
地球と人類の未来を心配し、消費社会から持続可能な社会への移行(トランジション)の構想を模索する若い世代にこそ、この訳書を通じて、文化や地域の自治の視点から地球環境問題に対する向き合い方を学んでほしいと切に願っています。