年末に帯状疱疹を患い、病気療養中のまま新年を迎えた。文字を読むと疲れるのでしばらく読書から遠ざかっていたが、正月に入った頃から本を読む気力と体力が戻ってきた。
とはいえ、最初は一日1時間程度の読書が体力的に限界。ならば仕事のことは忘れて好きな本を読もうと手にとったのが、『教行信証』と『浄土三部経』。十代の頃からの愛読書であり、最初に入手した版は繰り返し読んだ跡がそこかしこに刻まれている。新しい年の始まりに気持ちを引き締めるため、『教行信証』の序にある「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する慧日なり」をふと諳んじてみたら、無性に読みたくなったのである。そうなれば大無量寿経と観無量寿経も、と続けて読み進んでいった。
音楽家のダニエル・バレンボイムは、若かりし頃よりスピノザの『エチカ』を愛読し、無限について考えてきたと語っている。私にとって親鸞聖人の『教行信証』は、それと似た読書体験を与えてくれる。
その他に読んだ本は『古今和歌集』『新古今和歌集』、それに『平家物語』と能楽の戯曲「土蜘蛛」と「鵺」。
日本文学は、近現代よりも古典を好んで読む。母方の祖母の影響で、子供の頃から和歌に親しんでいたからだろう。古文の音律と色彩、作品を構成する多様な文体に日本語の魅力を感じる。加えて古典文学には、近現代の日本語文学では味わえない物語世界がある。折々の自然の中に人の心と人生の無常を詠む。夜の静寂と月の魔力が物の怪と死者を誘い、人間の世界と人間ならざるものの世界が入り混じる。諸行無常の時の流れの中で起こる平家没落の悲劇、現世(うつしよ)に異世界の何ものかが現れる能楽の世界。この世は人間の意志や行為を超えた数々の理(ことわり)によって動いており、言葉はその人間ならざる場所の深淵に触れ、実在世界に異次元的なイマージュを与える。
現代日本語は、古典文学のような音律、詩的想像力、霊性を獲得できるだろうか。病気療養中、古典の言の葉(ことのは)の世界に没入していた私は、言葉が情報として氾濫し消費されていく世の中に背を向けていた。自分自身の思索を形にするにふさわしい日本語を求めて。
中野佳裕
2022. 1. 16.