先日、一昨年より課題だった「人新世と人工知能の時代における脱成長」という論文を漸く書き上げることができた。この論文については出版の時期が近づき次第、思索日記で紹介しようと思う。論文執筆を終えてほっと一息を突きたいところだが、なかなかそうはいかないもので、早速セルジュ・ラトゥーシュの最新の著作の翻訳に取り組んでいるところだ。テーマは「労働と脱成長」。分量は少ないが、最近の著作の中ではかなり癖のあるフランス語で、色々工夫をしながら訳出している。どうにか完成させることができればよいのだが。
さて、翻訳しながら改めて考えさせられているのが、ラトゥーシュにとって脱成長とはいったい何なのかということだ。彼は脱成長を何かしらの完成された社会システムとして提示しようとはせず、グローバル化した消費社会から抜け出すプロセスとして捉えている。しかもそのプロセスにおいて最も変化が生じるのは想念の次元においてである。こうして繰り返し彼の著作を読んでいると、脱成長は何よりもまず、「思考の方法」として現れているように思われる。
例えば今回は労働がテーマだが、脱成長において労働はどのような位置を占めるのだろうかと著者は問う。多くの人は脱成長を「マイナス成長」と誤解し、脱成長社会においては失業が増加するのではないかと危惧する。しかし脱成長(la décroissance)が「減らす(décroitre)」のはむしろ労働時間と資源消費量であり、それによって多くの人に雇用を分配し、生活の質を向上させ、さらには生態学的にも持続可能な社会を創ろうというものだ。ところで労働時間と資源消費量を減らすにはどうすればよいだろうか? そのためには経済活動の再ローカル化、ならびに消費社会に寄生的で有害な産業(広告、原子力、軍事)の転換による新たな雇用の創出が必要だ。さらに脱成長が目指すのは、労働時間の削減という地平を超えて働き方を変え、そして最終的には賃金労働から自由になることだ・・・云々。
ラトゥーシュの全ての著作に共通して言えることだが、彼の脱成長論は、消費社会を規定するモノの見方や考え方から抜け出すための思考実験として展開している。各問題群(労働、豊かさ、幸福、食 etc)の中から思考の道筋を具体的かつ文脈に沿って導き出そうとしているわけであって、普遍的な理論体系を構築して現実にあてはめようとしているわけではない。思考の道筋を描く中でメインストリームの経済学者と対決し、隣接する議論と対話を繰り返すことで、脱成長の「意味の地平」を段階的に広げ、可視化しようとしているのである。
当然、彼のこのような議論のスタイルの中に何らかの完成された社会システムの提示を期待すると、大変な誤解や誤読を招くことになる。言葉のレトリックを含め、ラトゥーシュの文章は全て、「経済成長信仰から抜け出す思考の手続き」として読まれるべきである。
ラトゥーシュの語り口はフランス語特有のレトリックを効かせた知識人のそれで、基本的にはフランス社会のアクチュアルな状況の中で問題提起し、現地の市民社会に向かって語り掛けている。現代社会の常識(コモン・センス)に対して疑問を投げかけ、対話や議論を重ねながら自身の思考を構築しようとしている。そう、彼の脱成長論の核心にあるのは大伽藍のような理論体系の構築ではなく、対話的思考による思考の手続き、モノの見方の転換である。きわめて思考実験的な要素が強い文章である。フランスの思想ないしはフランス語のレトリックに慣れている者からしてみると、想像力が刺激され、(実現可能かどうか、それが最善かは別として)「経済成長中毒からの思考の解放」を経験する読書体験である。しかし、慣れていない人からみると、「で、結局、脱成長って何なのよ」となるのだろう。その意味では、彼の言葉が語られる文脈を理解することが、読書の際には非常に重要になってくるのである。
中野佳裕
2022.3.14.