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研究者。PhD。専門は社会哲学、開発学、平和研究。社会発展パラダイムを問いなおし、持続可能な未来社会を構想するコミュニティ・デザイン理論の研究を行っている。脱成長、脱開発、トランジション・デザインがキーワード。 Researcher: Areas of specialization are social philosophy and critical development and peace studies. Working on community designing in line with the ideas of degrowth, postdevelopment and transitions design.

時代の分岐点としてのガンディー思想

今から7年前のことだが、私が国際基督教大学で開発学の入門講義を担当していた頃、香川大学の石井一也さんにガンディーの「身の丈の経済論」についてゲスト講義をして頂いたことがあった。

当時、石井さんは単著『身の丈の経済論──ガンディー思想とその系譜』(法政大学出版局、2014)を上梓されたばかりで、ゲスト講義も同書の内容に基づいたものだった。ガンディーといえば非暴力・不服従の平和思想、反植民地主義運動の精神的指導者というイメージが付きまとうが、石井さんはこの本でガンディーの独創的な経済思想に注目した。

チャルカー運動から受託者制度理論に至るまで、ガンディーは経済をより人間的で倫理的なもの、身の丈かつ場所に根差したものに転換しようと試みていた。その脱近代・脱西洋的な経済思想は、市場経済の野放図なグローバル化に対するオルタナティブとして今日世界的に注目を浴びるようになっている。例えば2019年5月、フランスの経済誌 『アルテルナチブ・エコノミーク』(Alternatives Economiques)には、ガンディー生誕150周年を記念して彼の経済思想を再評価する論考が掲載された(1)。

ガンディーは、脱開発・脱成長の先駆者としても注目されている。イランの思想家マジード・ラーネマは、ジャン・ローベルとの共著『貧しき者たちの力能』(2008年)でガンディーの経済思想をスピノザの力能の哲学の系譜に位置づけて議論している(2)。また、フランスの脱成長派の哲学者セルジュ・ラトゥーシュも、近著『脱成長』(白水社クセジュ、2020)において、ガンディーのスワラージの思想を取り上げ、その中に脱成長が目指す自律社会の原型を見出している(3)。

石井一也さんの『身の丈の経済論』は、ガンディー再評価のこの世界的流れと共振する研究であり、持続可能な多元世界(the pluriverse)をデザインしていくヒントが詰まった一冊である。

当時のゲスト講義の記録とそれに対する私の序論(4)と解説論文(5)は、『社会科学ジャーナル』(国際基督教大学社会科学研究所編)78号に掲載されている。解説論文では、『身の丈の経済論』の内容を、ローカリゼーション&脱成長に関する多様な研究動向の中に位置づけて、今後取り組むべき問題群を引き出している。関心のある方は是非、一読されたい。

*論文はこちらからダウンロード可能

中野佳裕

2021. 4. 6

参照文献

(1)Jean-Joseph Boillot (mai 31, 2019) Gandhi et l’économie, d’une actualité surprenante | Alternatives Economiques (alternatives-economiques.fr)

(2)Majid Rahnema et Jean Robert, La puissance des pauvres, Paris, Acte Sud, 2008. ラーネマのガンディー評価については、中野佳裕『カタツムリの知恵と脱成長━━貧しさと豊かさについての変奏曲』(コモンズ、2017)第2章で詳しく議論している。

(3)セルジュ・ラトゥーシュ『脱成長』中野佳裕訳、白水社クセジュ、2020年。

(4)中野佳裕「ガンディーの経済思想を再考する──エコロジーと脱成長」『社会科学ジャーナル』(国際基督教大学社会科学研究所編)78号、2014年9月、pp. 5-7.

(5)中野佳裕「時代の分岐点としてのガンディー思想──石井一也『身の丈の経済論』への招待」『社会科学ジャーナル』(国際基督教大学社会科学研究所編)78号、2014年9月、pp. 23-42.

豊かさのメタモルフォーゼ

ウェブ研究室で紹介するのをすっかり忘れていたが、ちょうど1年前、『日仏経済学会 Bulletin』第32号(2020年)に短い論文を出版していた。

2019年10月19日に早稲田大学で開催された西川潤先生追悼研究会(日仏経済学会主催)での報告論文「豊かさのメタモルフォーゼ──経済の論理から、文化、そして生命の論理へ」を加筆修正して完成させたものだ。

学生時代、西川潤先生からはラテンアメリカの従属理論、アジアの内発的発展論など、世界システムの「周辺」から現れたオルタナティブな開発理論を学んだ。

当時の私は、国際協力という枠組みの中で開発を学ぶことに違和感を持ち続けており、むしろ自分の故郷の生活経験を通して感じていた日本の地域開発や地方の自立の問題の方に関心を寄せていた。

西川先生の講義とゼミナールを通して、主流派開発経済学の視座からは「低開発地域」と呼ばれる〈南〉の社会の研究者が、社会運動に関わりながらオリジナルの発展理論を構築している事実を知った。その根本にある思想は「解放」と「自立」。日本の地方は資本主義の中心の中心であるメトロポリス的生活に憧れてそれを模倣するのではなく、むしろ世界システムの〈南〉から現れるこのような知的格闘から自立の道を学ぶべきではないだろうか。そう考えるようになった。

西川先生自身、自立を求めるこれら〈南〉の民衆の社会的・知的格闘の中に身を置きながら独自の市民社会論を探求していった人だった。その市民社会論の核心にあるのは、各人が内発的な「目覚め(サルボダヤ)」によって社会変革の主体になる──「市民になる(devenir-citoyen)」──という市民連帯の内発的発展論だ。その思想のエッセンスは、最晩年に出版された『2030年 未来への選択』(日経プレミアシリーズ、2018)の中に凝縮されている。

ただ、正直に言うと、学生の頃、西川先生のこの市民社会論には違和感を覚えることもあった。先生は世界システム・レベルであれ、一国レベルの開発問題であれ、「中心―周辺」の権力構造に対する鋭く批判的な眼差しと周辺にいる人々への共感を持って研究をされていた。その一貫したコミットメントは、知識人の在り方として尊敬できるものだ。けれども先生の書かれる文章は、市民社会の深層のディオニュソス的次元をアポロン的理性の言語によって明確に整理しようとする文体をもっていて、そこから零れ落ちていく多くのものがあるような気がして納得がいかないことがあった。市民社会への期待が強すぎるのではないかと思うこともあったし、田舎から出てきたばかりの私には、洗練された教養のある都市的市民のことを語っているような気がして、そこから逃げ出したいと思うことがよくあった。アポロン的市民社会論からの離脱──人間の生活の、言の葉で分けられぬディオニュソス的カオスの闇(感性、情動、狂気、無意識、夢、述語的世界と呼ばれるもの)を理性の光で去勢せずに解放することはできないものだろうか。

私の勉強不足と頑固な性格が手伝って、先生とじっくり専門的な議論を重ねないうちに離れてしまったことを、今では少し後悔している。

その後、自分が直感的に抱いていた学問的問いを言語化してくれる思想を求めて彷徨ったが、ついにセルジュ・ラトゥーシュの思想と出会った。

この短い報告論文では、私の学問の原風景、セルジュ・ラトゥーシュの思想との出会い、そして今後の研究の展望などを、自分自身の知的探求の歩みと対話するつもりでまとめてみた。

大学院時代からそうなのだが、私の研究のスタイルは、一つ一つのエビデンスやデータを積み上げていくようなものではない。むしろ、直観として得られるイメージに導かれて物事を考え始め、イメージがもたらす色や音を言語化していくために必要だと思う様々な学問分野を横断していくなかで問いや答えを連鎖的に発見していくスタイルをとる。目の前に広がる様々な色や音を数珠つなぎで結ぶ言葉を発見した時が、納得した時だ。

そういうやり方でしか研究できないから、上手く形になるまで、一つの対象を様々なアングルから考え、語り、また考えていかねばならない。この短い論文も、そのような過渡期の作品だと思う。学術的価値はあまりないかもしれないが、自分が最近考えていることのエッセンスを素直に書き表しているという意味では、等身大の思考の塊だ。こういう形で一度考えをまとめておかないと、次のステップに進めないことがある。

今後、この論文に書き留めた問題群をどのように探求していくか、少し整理してみたい。

*論文は、日仏経済学会HPからダウンロード可能。

中野佳裕

2021. 4. 4