「Cahier 思索日記」カテゴリーアーカイブ

言葉の運び

音を奏でる時に指の運びが気になるように

物を書く時にはきっと、言葉の運びというものがあるはずで

その一つ一つのリズムが、機織の経糸に緯糸を通すように

言葉の色調を合わせ、文の肌理を整える

その細やかさは、工芸の道にも似ていて

言葉が世界に響きを与えるその微細な動きを

傍らからそっと手入れする感性の熟練を要求している

SNSが普及する仮想現実の時代

親指で画面スクロールを繰り返すたびに、目に飛び込むのは

「いいね!」を期待する言葉の群れ

かつて世界の散文だった言葉は、今ではネット社会の中の記号

近さも遠さも不確かな他者の前で、消費されていく

自分をポジショニングしていくために

文脈を失ったツイートが、根無し草のスピードで

取り戻したいこと、それは

言葉が呼吸をすること 生き生きと再び

その息遣いを聴くこと

そのリズムと共に思考を表に現すこと

言の葉が宙を舞い

水溜りに落ちたその瞬間に生まれる

微かな波紋が

振動となって世界を動かす

その世界の揺らぎを持続させること

言葉に生きる時間を与えること

物を書くということ、それは

この世界が生きていることを

言の葉が世界に舞い落ちるその響きとして表現すること

中野佳裕

2021. 03. 21

自然が見ているという感覚

故郷で暮らしていると、半島の地形のせいか、周囲の自然に見られているという感覚に屡々陥ることがある。潮風が身体に触れるとき、御手洗湾の波音が家の中に入ってくるとき、峨眉山の木々がざわめくとき、千坊山にトンビの鳴き声が反響するとき。それらの感覚は聴覚や嗅覚や触覚に働きかけるものではあるが、「山が見ている」「風が見ている」「海が見ている」という表現でしか語り得ないような、そんな瞬間があるのだ。

「自然が見ている」というこの感覚の奥底には、一体何があるのだろうか。探求してみたい。

中野佳裕

2021.03.17