この一年くらいの私は、人間の日々の営みを構成する時間の地層に関心がある。地域の生活が幾重もの時間の層によって構成されているように、人間の身体や精神の中にも、日々の生活を通じて感得される物や生命の流れが、幾重もの時間経験となって蓄積されているのではないだろうかと。
深層の経験ともいえるこの時間の地層は、消費社会の商品化の論理によっても人工知能のディープ・ラーニングよっても掬い取れないほどの深さと複雑さを持っていて、毎日の生活を営む中、身体記憶や心象記憶として常に呼び起こされているはずだ。
例えば今、パソコンで文章を書いている。キーボードを打つその刺激と共に、実家の商家の家屋の柱の手触りが、その中庭を照らす日の光の明るさやアロエの香り、五右衛門風呂のイメージと重なりながら両の手の平に蘇ってくる。同時に、そこに七世代暮らしてきた家族の生活の歴史が、亡き祖母や父との対話の記憶と共に蘇ってくる。
想起の連鎖は無限に拡張されて行く。先祖代々使ってきた和菓子作りの道具の木の触感や秤の重さ、製造場から毎朝立ち込める肉桂が焼ける香り、その香りと重なるように空から降ってくるトンビの鳴き声、実家に吹き込む半島の潮風の肌触りや波音・・・。
パソコンを閉じて東京の街を歩き始めると、アスファルトを踏む私の足の裏には、またいつものように故郷の砂浜を歩いていた記憶が、砂や砂利の足裏を刺激するあの感触や、波や魚が絹糸のように足に絡みつく感触と共に蘇るだろう。
手の平や足の裏から解放されるこれらの記憶と感覚は、目の前に閃光のように現れたかと思うと、次の瞬間には、再び手や足の中へと帰っていく。分節化されない濃密さをもって、凝縮された隠喩の跡を残して。
そんなことが、一日の中に何度も、何度も、起こることがある。自己の内を見つめれば見つめるほど、気が付くのは、そのようなどこまでも尽きることのない時間の地層の存在だ。
人間が生きる過程には、存在の基層を成す多層な時間の流れを自覚することから始まる、意識や知覚の変化、関係性の変化というものがあるはずだ。
消費社会のリズムとは異なる時間が、幾重もの層となって自己の身体と精神のその中に、地域の生活を形作る様々なモノの営みの中に、生きている。これら深層の時間の変奏と交響として現れる生活づくりなり、地域づくりなりが、あるいは深層の時間を覚醒させる道が、脱成長と呼ばれうるものではないだろうか。
そんなことをずっと考えながら研究を続けている。
元来、自分の人生を導くために学問を行っている故、私の学問的問いは常々、自己内対話の奥底にある暗闇の中からやってくる。表出され自覚されたばかりの問いを、既存の人文・社会科学の言語に乗せて議論することはなかなか難しい。問いを精錬させていくには、ゆっくり、じっくり、時間をかけて言葉と向き合い続けなければならない。
この問いもいつか・・・。
中野佳裕
2021.03.16