「Cahier 思索日記」カテゴリーアーカイブ

新刊案内『応用哲学』ー「脱成長」

10月中旬に刊行予定の学術書『応用哲学』(松田毅、藤木篤、新川拓哉編、昭和堂)に、「脱成長━消費社会から節度ある豊かな社会へ」という論文を寄稿しました。

本書は哲学を専攻する大学生向けの教科書として制作されました。昭和堂の「3STEPシリーズ」の一冊ですが、その名の通り、各章では特定の問題領域に関する基礎知識が3つのセクションに分かれて整理されています。

応用哲学は、現代世界の様々な問題を哲学的な思考手続きと概念を援用しながら解きほぐしていく学問分野です。現実世界が常に変わり続けている以上、対象となる問題群も変化し続けます。今回の書籍では、気候変動、気候工学、システム、貧困、人工知能、生殖医療、予防医療、アニメーション、スポーツ倫理、e-スポーツ、歴史など、社会・経済・科学・技術・環境に関わる先端的なトピックが扱われています。脱成長もこの一覧の中に加わりました。

小生が寄稿した論文では、脱成長の理論史と基本テーマ、および近年の研究動向と主要な論点・課題が紹介されています。フランス語の「décroissance」と英語の「degrowth」における理論構成の違いを意識しながら、国際的な脱成長研究の全体像を限られた紙幅でバランスよく網羅することに努めました。

脱成長の学術的議論、特にフランスにおける議論は、開発とグローバル化に対する哲学的・人類学的省察から始まりました。今回、哲学・思想分野の書籍の中で脱成長を紹介する機会を得られたことが、専門研究を続けてきた筆者にとっては非常に嬉しいことです。私自身も、ようやく自分のフィールドに帰ってこれたような、そんな気持ちで執筆することができました。企画にお誘い頂いた編者の皆様に、この場を借りて感謝申し上げます。

この論文ではフランス語圏と英語圏の脱成長論の動向をカヴァーしています。近年、脱成長研究は英語を通じて国際化していますが、執筆しながら思ったことは、やはり私はフランス語の音感やレトリックを通して開ける意味の地平、そこから考えられる脱成長のイメージが好きなんだということでした。

ところでこの論文には、隠し味として、PhD論文のエピグラフとして引用したこともあるモーリス・ブランショの或る著作へのオマージュともいえる表現を密かに盛り込んでいます。読者の中でわかった方がいたら、とても嬉しいです。楽しい読書を。Bonne Lecture.

中野佳裕

2023. 09. 23.

アマゾンのアンチゴネ Antigone in the Amazon

フランスの地方都市アヴィニョンで開催中のアヴィニョン演劇祭(2023. 7. 6.-7. 26)で話題になっているのが、スイスの劇作家ミロ・ラウ(Milo Rau)の手による新作劇「アマゾンのアンチゴネ(Antigone in the Amazon)」である。古代ギリシャの劇作家ソフォクレスの作品「アンチゴネ」を21世紀のアマゾンを舞台に蘇らせたもので、肥大化する資本主義によるアマゾン熱帯雨林の森林破壊がテーマになっているという。2023年7月18日付の仏ルモンド紙でも特集が組まれている。

ミロ・ラウが本作品の着想を得たのは、2018年に制作した作品「La Reprise」の上演のために訪れたブラジルでのこと。現地の「土地なし農民の運動(Movimento dos Trabalhadores Rurais Sem Terra=MST)」のメンバーから作品を一緒に作りたいと要望を受けたことがきっかけで、古典作品の「アンチゴネ」を現代的に変奏する着想を得たという。

土地なし農民運動(MST)は、農地の公正な分配を求めるブラジルの社会運動体である。1996年、アマゾン国立公園を擁するパラー州で進行中だった高速道路建設計画に反対していたメンバーが機動隊によって殺された。ルモンド紙のインタビューでこの劇作家は、アンチゴネとMSTを重ねて次の様に答えている。「アンチゴネは資本主義国家に対する闘争と土地をめぐる悲劇であり、抵抗の象徴です。土地なし農民運動に関する演劇作品の中で彼女(アンチゴネ)が現れるのは、当然のことです」。

国家に対する抵抗を描くこの古典劇が現代世界の権力批判として注目を浴びるのは、小生が知る限りではこれで二度目である。一度目は、米同時多発テロ(2001)からイラク戦争(2003)の時期である。当時の米国政府は「テロとの戦争」の名の下でアフガニスタンやイラクを侵攻し、愛国者法(Patriot Act)を制定して厳格な移民規制を行うと同時にテロリストとの繋がりがあると疑われる人物を国外に追放した。米国社会は監視社会化し、大学をはじめ学問や言論の場は委縮した。当時の私は英国の大学院に留学していたが、米国の批判的国際政治学者の中には、言論と学問の自由を求めて英国の大学に移籍する人々も少なからずいた。

この時期、アンチゴネは国家の法規範に対する異質性や単独者のアレゴリーとしてジュディス・バトラーやジョアン・コプジェクなどのフェミニスト理論家によって再評価され、英語圏の批判理論研究者たちの間で「政治的なるもの(the political)」や市民的不服従を再考する重要な参照点となった。

そして二度目は、ミロ・ラウが手掛けた「アマゾンのアンチゴネ」である。今回の作品では、アンチゴネが語られる舞台は「テロとの戦争」から「地球環境破壊」へと転換した。しかし両者は、開発とグローバリゼーションが行き詰まった今世紀最初の四半世紀の時代精神━━シェイクスピア作品の有名な言葉を借りるならば、「時代/時の箍が外れてしまった(Time is out of joint)」感覚ないしは一般的状況━━を分有していると言えるだろう。「経済ジェノサイド」は気候変動、パンデミック、戦争、生活コストの危機など様々な姿となって現れている。アンチゴネの亡霊は幾度も再来し、これらの危機の中にある暴力と抵抗の諸相を照らし出すだろう。

「アマゾンのアンチゴネ」ーー日本での上演を是非、期待したい。

中野佳裕

2023. 07. 19.