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研究者。PhD。専門は社会哲学、開発学、平和研究。社会発展パラダイムを問いなおし、持続可能な未来社会を構想するコミュニティ・デザイン理論の研究を行っている。脱成長、脱開発、トランジション・デザインがキーワード。 Researcher: Areas of specialization are social philosophy and critical development and peace studies. Working on community designing in line with the ideas of degrowth, postdevelopment and transitions design.

折り目正しい生き方を求めて

幼い頃、寝つきが悪かった私は、眠れない夜に布団の中で独り目を閉じながら、「私は正しく生きているだろうか」と自問自答することが多かった。心の中で頭上の仏壇に向かって手を合わせ、今日もまた先祖や両親を悲しませるような生き方をしなかっただろうかと、一日を反省するのである。その日に為した小さな嘘や我儘が思い出され、それらが大きな罪悪感として心に刻まれる。私はなんと親不孝なのだろうと涙を流せば、漸く落ちついて深い眠りにつけるのだった。

大人になった今でも、ことあるごとにこのような問いを繰り返しながら生きている。通りを歩いている時、仕事をしている時、文章を書いている時、眠りにつく時、一日の中のふとした時に「今、私は正しく生きているだろうか」と自問し、物事に向き合う際の自身の心の姿や立ち居振る舞いを問い質すのである。心の落ち着きが失われていたり、仕事や生活の諸々に丁寧に対処できていなかったりするときは、過去にも同じ心や行いを繰り返していたことが思い出され、自身の未熟さが反省される。仕事の都合で故郷から離れているが、先祖は常に私を見守っている気がしてならない。物理的に一人でいても、孤独な感覚はしない。それ故に、一日一日の己の行為、生き方というものが気になるのだ。

ところで「正しい生き方」とは何だろう。この言葉を聞いて、何か到達すべき特定の理想や目標を思い浮かべる人もいるかもしれない。しかし、私はこの言葉を目的論的な意味で使ってはいない。多様性を尊重する自由な社会において、人生の目標は人夫々であって良いはずである。

では、私が幼き頃より自問自答を繰り返している「正しい生き方」とは何かというと、おおよそ次のようなことだ。それは、子どもには子どもなりに、大人には大人なりに、日々の生活や生業において曲げてはならぬ種々の道理というものがある。あるいは物事に向き合うにあたって相応しい心の姿や態度というものがある。正しい生き方とは、それらを丁寧に実践し積み重ねながら生きていくことを意味する。言い換えれば、「折り目正しい生き方」ということだ。

子どもの時であれば、それは生活の基本的な心構えを習得することにあるだろう。例えば、正直でありなさい、嘘をついてはなりません、努力を積み重ねなさい、忍耐力をつけなさい、過ちは素直に認めなさい、直ぐに謝りなさい、といったものだ。読み書きを覚えたり、学校で知識を身につけたり、算盤や習字などの習い事をしたり、水泳や野球などの運動、空手や剣道などの武芸を学ぶのは、技術の習得に関わるだけでなく、物事に対処するための様々な心構えや平常心を養うことにも繋がる。

大人になっても、夫々の生業において習得すべき折り目正しさというものがある。例えば和菓子屋だった実家の生活を振り返ると、その基本は何よりもまず、先代から引き継いだ家屋や道具、技術や慣習を熟知し大切にすることにあったように思われる。宮大工が建てた家屋は毎日清掃し、休まず商売を行うことで天然の風が通気口に入り込み、建物の換気と維持が為される。早朝の準備を終えて朝食をとる前には、神棚に供物と祈りを捧げ、閉店後には供物を下げて夕飯に家族で頂く。代々引き継がれた菓子作りの道具は替えが効かず、年一度の祭りにやってくる行商人に修理してもらう。だから丁寧に扱わねばならない。生地の製造から饅頭の包装まで、作業の多くは手作業である。職人の身体は年齢と共に変化するが、変化と付き合いながらも菓子作りに必要な技術と身体感覚は一定に保つように努力しなければならない。作った菓子に魂が宿るかどうかは、作り手の心構えと行為の折り目正しさにかかっている。この折り目正しさは、日々の生活における一つ一つの所作の積み重ねとして現れるのである。伝統職人業も生活のために働くことには変わりないが、その過程を観ると、資本主義的な賃金労働には還元できない、儀礼にも似たスピリチュアルな次元や型が生活空間の中に存在し、代々続くそれら一連の手続きを守ってこそ一日の仕事が完成するのである。

現代消費社会に生きていると、仕事においても家庭生活においても、何が折り目正しい生き方なのか、自分の行為がどのような歴史と文化的ルーツをもち、どのような意味を有しているのかが見えなくなる。利潤の飽くなき追求を是とし、経済的パフォーマンスによって能力を測る社会では、人々は、富の生産に特化したプログラムを動かすために毎日のルーティンを繰り返す。労働はその文化的でスピリチュアルな意味を失い、その価値は価格競争のために商品の値段と共に買いたたかれる。多重のアウトソーシングの下、生産者の責任の所在は不明となり、商品の質は劣化し、消費欲を刺激する表面的な広告イメージが独走する。物に魂を宿すことを忘れた経済システムは、資源を浪費し、大量のごみを排出する。消費社会のグローバル化によって今や地球生態系の均衡は大きく歪み、気候危機の大加速化が進む。

もう二十数年前のことだが、私は大学進学を機に東京に出て、そこで初めて都市生活を経験するようになった。大都市の機能の複雑さと規模の大きさ、受験戦争の熾烈さと勤め人が多い生活に驚いたことは勿論だが、それ以上に圧倒されたのは、資本の論理に従ってシステムを人工的に管理しようとする合理主義的な意志の存在だった。通勤・通学の風景を眺めても、労働の現場や商売の進め方を垣間見ても、大都市の生活は、経済的活力に連動した選択肢の豊富さと引き換えに、物事の折り目正しさを守る道を失いつつあるのではないかと感じたことがある。この感覚は今でも変わらないどころか、ますます強くなっている。

現代消費社会が引き起こしている社会的・生態学的・精神的な危機は、システミックな危機である。この危機に対して制度変革の構想が必要なのは言うまでもない。倫理に訴えるだけでは社会を変えることはできない。確かにそうである。

しかし、こうも言えるだろう。物に魂を宿すのは人間ひとり一人の行為である。その行為の折り目正しさが物事の肌理(きめ)を細やかに仕上げ、種々の関係の結果としての社会を創出する、と。

それ故に私は、幼き頃と変わらず今も繰り返し「私は正しく生きているだろうか」と問うのである。折り目正しさの感覚は、外から与えられるものではない(外から与えられる規準は、他律的支配を生む)。自己の内面との対話を通じて、生活の中から実地にかけて獲得するものである。その限りにおいて、折り目正しい生き方を求める心は、消費社会に対するオルタナティブとなるだろう。

中野佳裕

2022. 1. 30.

書物を大切にする心

幼い頃より両親からは生活上の様々な作法を教わったが、なかでも印象に残っているのは「書物を大切にせよ」ということだった。私の家は江戸時代末創業の和菓子屋(*2015年末廃業)で、学校教師のように知識を扱う職業でもなければ、作家のように物を書くことを専門とする生業でもなかった。しかし、文字や書物は尊いもので大切に扱わねばならぬという教えは徹底していたように思う。

書物に足を向けてはならず、寝る時には常に頭がある側に置かねばならない。地べたに置くのはもってのほかだ。机の上に置くのが基本だが、止むを得ず床や畳の上に置かねばならないときは、紙や風呂敷などの敷物の上に置かねばならない。

物心ついた頃からこのような生活を繰り返していると、文字が書かれた物が尊いものであり、丁寧に接しなければならないものだという心構えが、何となく育ってくる。本や漫画、日記や手紙など、読み書きするあらゆるものに対する態度が整ってくるのである。

三つ子の魂百までとはよく言ったもので、この頃に身に着けた習慣は大人になった現在でも失われていない。書物を大切にしなければならないという気持ちは常に生きており、今でも足が向く側に書物を置くことはできないし、汚れたり角が折れたりしないように風呂敷に包んで持ち運ぶようにしている。まがりなりにも言葉と知識を扱う職業に就いているからには、人類の叡智の結晶である書物は子供の時以上に大切にしなければならない。そういう思いが強くなっている。

言葉というのは不思議なもので、精神の産物でありながら、文字としてこの世界のどこかに刻まれることで物質性や場所性を帯びるようになる。先程私は、書物を大切にする心が子供の頃の習慣から芽生えたと話したが、この心の芽生えは家の空間に対する特殊な認知方法の発達と連動していたと思う。江戸時代に建てられた家には独立した子供部屋は存在しなかった。遊ぶ場所も学ぶ場所も寝る場所も、常に八畳一間の仏間で繰り広げられる。そういうわけだから、何をするにも仏壇が目に入る。先祖に常に見られているような気がして悪いことができないし、仏壇に立てられているお経や戒名の文字には絶対に足を向けられない。書物を大切にしなさいという教えにしたがって生活することで、いつの間にか家の中に聖と俗の境界、死者と生者の関係も出来上がっていて、それが家という空間をどのように認知するかということに少なからず影響を与えていたように思う。

故郷の中で私が最も宇宙的なものを感じる言葉がある。その言葉は、先祖の墓がある山間の禅寺に刻まれている。禅宗の寺ではあるが、古くは真言宗とも縁があり、寺の門の前には弘法大師の石像がある。その石像の台座に「三界萬霊」という四文字が大きく刻まれている。幼い頃より先祖の月命日に父とこの寺を訪れ、そこかしこに書かれてある仏語や仏教に因んだ小話を読むのが楽しみだった。なかでも三界萬霊の四文字は私の心に強く印象付けられている。この四文字の前に立つ度に、私はその中に大宇宙の響きと、その中で幾度となく流転を繰り返してきた有情の魂の歴史の長大さを感じるのだ。今でも帰省する度に寺を訪れ、石像の前でこの四文字を眺めながら自身の生の過去・現在・未来、そして先祖や郷里との関係について思いを巡らせるのが習慣になっている。

情報化社会の急速な発展で、今では様々な文書が電子化されオンラインで閲覧できる時代になっている。文字はそれが刻まれるマテリアルな媒体から離れ、情報データとして電子空間に集積されるようになった。現代人の読書術や読書体験は大きく変わり、それに応じて書物や文字に対する態度も変わるだろう。

電子化された文字は、もはや日々の生活の中で身体的接触をもたらすものではなくなっている。それは日常生活における聖と俗の境界、頭や足といった身体的位置関係から離れ、脱物質化され、場所性を失っている。そのような文字は、人間の身体を包む世界という「肉」(メルロ=ポンティ)に意味や歴史を刻み、その宇宙的次元を開示する魔術的力を失っているのではないだろうか。

仮にこのまま電子空間における文字の集積が進み、文字の物質性と場所性が根こそぎ失われたとしよう。その時、我々に「書物を大切にする心」は残っているだろうか。もしその心が失われたとき、人類社会にどのような変化がもたらされるだろうか。そこにはかつて口承文化から文字文化への移行が起こった時と同じくらいの認識論上の大転換が待ち受けているように思われる。

これは、今後の研究で考えていきたいテーマのひとつである。

中野佳裕

2022. 1. 27.