「Cahier 思索日記」カテゴリーアーカイブ

初対面のコンタクト

新型コロナウイルス感染症の流行が始まり対面コミュニケーションの機会が大幅に減った今、漸く自覚するようになったのだが、どうやら私はヴァーチャルなツールでの意思疎通が苦手らしい。

特に初対面の人とのやりとり。

数十年前からインターネットの恩恵を受けている身とはいえ、仕事の場でも、私生活の場でも、面識のない方からいきなりメールやSNSでメッセージを頂いたら、非常に戸惑ってしまう。

相手の人となりが見えないからだ。

確かに、メールでも文面を読めば、相手が礼儀を尽くしているか、丁寧に言葉を選んでいるかということは判断できる。焦って文章を書いたのか、何度も推敲して書いたのか、無駄が多い文章なのか、考えがまとまっているかということも。けれども、手書きの文章を受け取り、その人の書いた文字の形、文章に流れる「筋(すじ)」(*身体に譬えると、背筋にあたるもの)を見るまでは、どうも安心できないのである。

手書きの文字にはその時々の書き手の心の姿勢が形となって反映される。子供の頃、自分が書いた文章を偶然見た両親に、「文字が躍っている」と指摘されたことがある。文字が躍っているとは、心が躍っている、つまり落ち着いた心で文章を書いていないという意である。この一言は、子供心にとても響いた。書道を習ってはいなかったので、達筆を期待されていたわけではない。しかし、文字にはその人の心の構えというものが自ずと反映されるものであり、見る人は文字を通じてそこまで見るのだということを知ったのである。夫れ以来、文章を書くにはまず心を整えることから始めなければならないと思うようになった。今でも原稿を書く際は、どんな些細で短い文章であっても、その都度に新たな考えや研究を積み重ねるのは勿論であるが、加えて数週間前からイメージトレーニングを繰り返し、心構えを整えることを怠らないようにしている。そうしないと納得して書けないのである。

人との面会でもそうだ。今やオンラインで気軽に遠くの相手と出会い、意思疎通をすることができる時代である。しかし実際に対面で会い、相手の佇まい、特に立ち姿や歩き方、座った時の姿勢や話す時の呼吸などを観なければ、その人を十分に知ったとは思えないし、こちらがどのような間合いや呼吸で言葉を返せばよいのかがわからなくなる。人間一人一人にはその時その場所に応じたその人特有の「気」というか「心の姿勢」というものがあって、実際に会ってみると、相手の佇まいからそれが感得されるものである。それを知らなければ、相手と上手く付き合えるようには思えないのだ。

ネットの時代になってもう随分と時が経過しているが、新型コロナウイルス感染症が流行するまでは、対面でのミーティングや手紙のやり取りを適度な頻度で行っていた。そのため、自分が上述した事柄を人間関係において重視しているということに、私自身、少々無自覚であったようだ。コロナ禍以前にもこの点を多少は意識していた向きはあるが、ヴァーチャルなコミュニケーションに完全に移行しても問題なく適応できるだろうと、どこか楽観的であったように思う。実際には、私の身体も思考も、ヴァーチャルなコミュニケーションには期待していた程は適応できていない・・・。

古臭い人間だと言われても仕方がないが、やはり私は、手書きの文章を読み、実際に出会って相手の佇まいを知るまでは、相手を知った気にはなれない、安心しない。

このウェブサイトでは、メールを通じて連絡を取れる仕組みを作っている。しかし欲を言えば、特に初対面の方とは、ちょっとした仕事の依頼であっても、まずは手書きで文書を交わしたいし、一度は対面で会って基本的な物事を確認することを望んでいる。今となっては時代錯誤で贅沢な願いである。

中野佳裕

2022. 1. 26.

消費社会に対する四つの問い━私の学問の原点

正月休みの間、少し自分の学問上の問いを整理してみた。

  1. 技術━どうして現代社会は、手仕事の技術と身体性、それらが育む生業の精神と生活の型を失ってしまったのか。
  2. 風土━どうして現代社会は、生活の場から風土の感覚、風土の中で生きる身体を失ってしまったのか。
  3. 言語━どうして言葉は、生命・事物とのつながり、隠喩としての響きと色彩を失い、単なる情報として消費されるようになったのか。
  4. 宗教━どうして現代社会はかくも世俗化し、縁起への深い省察、霊性への志向を失ってしまったのか。

私が脱成長に関心をもつようになったのは、幼少の頃より消費社会に対して何かしらの違和感を抱いていたからだ。その違和感を言語化できるようになったのはもっと後のことで、研究者として自分の専門研究分野を確立してからのことだ。

既に『カタツムリの知恵と脱成長』(コモンズ、2017)において、私の学問の出発点には資本主義経済の商品化の論理への問いがあると述べている。この問いを探求するために言語学の視座から経済を考えてみたのが、ラトゥーシュの著作との出会い、そして現在の研究へとつながった。同書刊行後、研究と思索は進み、今では上述の四つの問題領域に整理して問いを立てるようになっている。四つの問いはすべて故郷の生活経験から獲得したものだ。それだけに私の研究は、自らの人生を導く〈道〉の模索でもある。

近年、脱成長に関わる研究分野では関係的存在論(relational ontology)に立脚した社会デザインが議論されている。議論の対象となる関係性は、社会関係資本から物(自然物、人工物)との関係まで多岐にわたる。その中にあって私が探求したいのは、消費社会の中で屡々周縁化された文化的次元の関係性である。それを問題領域ごとに整理すると、技術・風土・言語・宗教ということになる。

以上4つの問いにもう一つ加えるものがあるとすれば、それは「時間」だろう。しかし今のところ時間への関心は、風土の中の問題群の一つとして、すなわち場所に刻まれた「時間の地層(時間存在)」の問題として扱うか、あるいはベルグソン的な純粋持続の問題(空間化されない時間)として考えている。両者は哲学的に随分と異なる次元の話で、それだけでもきちんと整理しなければならないのは、十分承知の上であるが・・・。時間を独立した問題領域として扱うかどうかは、研究がさらに進むにつれて明らかになるだろう。

中野佳裕

2022. 1. 19.