持続可能性と幸せ──世界的な減速時代を見据えて

この度、イタリア・シエナ大学の経済学者ステファノ・バルトリーニを2019年11月下旬~2020年1月末まで、早稲田大学の訪問教授として招聘することになった。この間、同氏は「持続可能性と幸せ」というタイトルの講義を社会科学部で行ったり、様々な研究会や講演会を行った。以下は、2020年1月10日にグローバルアジア研究拠点で開催したワークショップの報告内容を紹介しておこう。

バルトリーニはイタリアの「幸せの経済学派」を代表する研究者の一人である。同氏の主著には『幸せのマニフェスト──消費社会から関係の豊かな社会へ』(拙訳、コモンズ、2018)があり、コミュニティの社会関係資本が人々の幸福度に与える影響を検討しながら独自の脱成長論を展開している。脱成長論の多くが生態学的持続可能性(ecological sustainability)を中心に理論構築を行っているのに対して、バルトリーニは社会的持続可能性(social sustainability)に軸足を置いている点が特徴的だ。

『幸せのマニフェスト』では、現代先進諸国の多くで幸福度の低下が確認される原因を、模範例である米国社会を事例研究することで明らかにしている。世界最大の経済大国である米国で1950年代以降、国民の幸福度が低下している原因は、経済成長と引き換えにコミュニティの社会関係資本が衰退したことにある。かくして、「社会関係の貧困」によって生み出される孤独感、精神的不安、ストレスを解消するために消費欲を刺激する社会が設計されていった。米国の経済的繁栄は、社会関係の貧困の補填として達成されたのだ。しかし、より多く消費するためにはより長く働かなければならず、経済競争圧力の下での長時間労働はより多くの孤独や不安やストレスを生み出す。いまや平均的な米国人はこの「労働ー消費」サイクルの悪循環から抜け出せなくなっている。

バルトリーニは、この悪循環を構造化する形で起こる経済成長を「防御的経済成長」と名付ける。1980年代以降に先進諸国に導入された新自由主義政策は、防御的経済成長を強化する制度改革を進めてきた。同書では、学校教育、労働環境、広告産業、民主主義制度の「劣化」が豊富なデータを用いて考察されている。そして防御的経済成長の悪循環を断ち切るために、地域コミュニティの社会関係資本を豊かにし、国家―市場の二分法を超えた「脱成長型コミュニティ経済」の構築の必要性が提案されている。

今回の報告では、上述した『幸せのマニフェスト』の議論を敷衍し、将来世代の幸せを担保するための社会構想を提案した。まずバルトリーニは、近年の地球温暖化や地球環境破壊をめぐって、欧米のエコロジストの間で終末論的議論が流行している点に警告を鳴らす。このタイプのエコロジー思想/運動は、未来の可能性を描けなくするだけでなく、現在世代の行動を道徳的に非難する「説教師的な態度」を採用しており、個人レベルでの禁欲を求める次元で議論が止まってしまいがちだからだ。その結果、エコロジーの問いが社会全般で共有化されず、「都市部の意識高い中流階級や知識人の言説」のままで終わってしまう。

エコロジー思想/運動は、このような隘路に陥る危険を自ら防止し、幅広い層に訴えかける運動へと変わるべきだというのがバルトリーニの主張だ。氏によると、そのためのいくつかの条件は整い始めている。

(1)最新の研究によると、世界人口は国連の公式見解よりも早く、2050年頃には減少に向かう。エコロジー運動は、1970年代の時とは異なり、人口爆発問題を回避できるだろう。

(2)先進諸国の多くはすでに1970年代~1990年代から低成長時代に突入しており、他の新興工業国も人口減少にともない低成長時代へ向かうだろう。

つまり氏によると、中長期的には世界全体が脱成長ないしポスト成長へシフトしなければならない段階に突入するのだという(注──この箇所におけるバルトリーニの議論は、脱成長/ポスト成長を経済規模の縮小と混同している部分もあり、もっと概念的整理が必要だと個人的には思う)。問題は、この将来予測を踏まえた上で、現実に直面している経済・社会・環境問題を解決する「ポジティブな未来社会構想」を打ち出せるかどうかだ。

バルトリーニは、現在人類は大きな岐路に直面しているという。2008年の金融危機以降、新自由主義グローバリゼーションの限界が露呈し、市場原理主義が生み出した社会関係の貧困や社会の持続不可能性が世界各地で顕在化している。この現実の問題に対して、移民や外国籍の市民を排斥する排外主義的言説と、それを利用して孤独と不安を抱える個人をナショナリズムによって保護しようとする権威主義体制が台頭してきている。トランプの米国、オルバンのハンガリー、エルドアンのトルコ、ドゥテルテのフィリピン、モディのインド、安倍政権の日本などがそうである。これらの政府は「あなたは孤独ではない。国家があなたを保護する」というメッセージを国民に対して送り、一方ではトップダウン式の経済成長主義を堅持し、他方で排除・差別・格差などの社会的分断を深めていく。

このナショナリズムの趨勢に対して、バルトリーニはもう一つの選択肢を提案する。それは、コミュニティの社会関係資本を豊かにし、人々の自由と協働を高めていく連帯的で共生的な社会である。将来世代の幸せを担保するためには、まず現在世代が幸せになる必要がある。そのためには、現在世代が嵌り込んでいる防御的経済成長の罠から抜け出し、経済成長よりも関係の豊かさを、個人主義的な経済競争よりも市民的協働に重心を置くコミュニティ経済を構築していかねばならない。

独自のシミュレーション・モデルを使って、バルトリーニは、同じ社会問題に直面する社会でも、そこに暮らす住民がどのような行動原理に価値を置くかによって将来の結果は違ってくると説明する。隣人も政治も信頼せず、お金を稼いで自分や自分の子供を守ろうとする社会では、防御的経済成長の負のスパイラルが強化され、環境破壊も格差も拡大し続ける。反対に、隣人や政治を信頼し、目の前の社会問題を協力的行動によって解決しようとする社会は、防御的経済成長を抜け出して、豊かな公共空間を備えた「住みやすい都市(a livable city)」を創ることができる。持続可能性と幸せを担保する社会は、後者のシナリオだと締めくくった。

バルトリーニの議論は、宇沢弘文の社会的共通資本の考えとも通底するものであり、現代先進社会が直面する持続可能性や幸せの問題を制度論的視点から明確にし、市民的協働と政治の変革にその解決を求める点で独自の貢献をしているといえるだろう。特に将来予測される世界人口減少を踏まえて、大減速時代のポスト成長プロジェクトを構想しようとしている点でユニークである。

報告中にも小生から問題提起したのだが、1960~70年代の日本の公害反対運動や途上国の環境運動は開発の被害者の解放を求めるサバルタン運動であるといえるし、里山資本主義や里海資本論に見られる現代日本のコミュニティ経済実践など、地方から始まる循環型経済づくりは、バルトリーニが批判するような「都市の意識高い系のエコロジー運動」とは異なり、土着の生活に根差した地に足の着いたものである。このようなオルタナティブなエコロジー運動をどのように評価するか、もっと意見を聞きたかった。彼の新著に期待したい。

2020年1月11日