カテゴリー別アーカイブ: Cahier 思索日記

「節度ある豊かさ」と脱成長

セルジュ・ラトゥーシュの『脱成長』(白水社クセジュ、2020年)が刊行されました。原書刊行からそれ程大きな間隔を開けずに翻訳出版できたことを、訳者として嬉しく思っています。

本書は、著者が20年近くに亘り展開してきた脱成長論を市民向けにまとめた一冊。コンパクトながら随所に著者の長年の研究と思索の痕跡が見られ、読み応えのある内容です。

本書の大きな特徴は、脱成長社会の軸となる価値として「節度ある豊かさ(abondance frugale)」という概念が導入されている点です。この概念が最初に導入されたのは、『節度ある豊かな社会を目指して』(原題──Vers une société d’abondance frugale, Paris, Mille et une nuits, 2011)において。その後10年に亘り著者は、関連分野における最新の議論や思想史の研究を進め、「節度ある豊かさ」の多元的かつ具体的内容をまとめるに至りました。

「節度ある豊かさ」という概念は、「豊富さ」を意味する「abondance」に「簡素さ/節制」を意味する形容詞「frugal」を付けており、矛盾語法のように見えます。また、一見すると、何か我慢を強いる否定的なニュアンスも感じられます。しかし、本書で展開されているように、この語は、豊かさの質的・形態的変化(メタモルフォーゼ)を引き起こす柔軟でポジティブな概念として導入されています。

「節度ある豊かさ」は、有機的自然と調和しながら、歓びある生を他者と共に自己創出していく技法を表す言葉です。それは、脱成長プロジェクトが引き起こす多次元的な変化を照らし出します。この語のニュアンスは文脈の中で多様に変化します。個人の選択(シンプル・ライフ)として語られることもありますが、しかしその次元に留まることなく、社会経済システムの変革(再ローカル化、コモンズの再構築、自己制御の倫理の制度化)、そしてより根源的にはコスモロジーの転換(世界の再魔術化、多元世界の構築)を指し示します。

本書を訳す過程で発見したのですが、著者の文章には脱成長の意味内容が凝縮されるフックとなる言葉がいくつかあります。その言葉のもつ連想と隠喩の効果によって、世界各地の反生産力至上主義の思想文化が反響し合い、様々な色調をもって目の前に現れてきます。「節度ある豊かさ」は、そのような言葉の一つです。

アリストテレスの「中庸」の思想、イヴァン・イリイチの「自立共生」、アルベール・テヴォエジレの「簡素な生活」、ガンディーの「スワラージ」、中南米先住民の「ブエン・ビビール」など、脱成長の基礎となる様々な政治・倫理思想が、「節度ある豊かさ」という語を通じて繋がり、共振するのです。本書を読んでいると、脱成長のグローバル思想史を逍遥する長い旅に出ているかのような感覚に陥ります。

著者はフロイト精神分析学の優れた読み手ですが、彼自身の文章の中に精神分析学的でいうところの凝縮(condensation)や置換(displacement)の作用が配置されています。訳者としてはその点が興味深く、彼の思考と言葉の奥深さを見た瞬間でした。

本書収録の「訳者あとがき」の補足として、ここに書き留めておきます。

中野佳裕

2020.11.06.

 

健康は、自律性の領域を指し示す──I・イリイチと考えるコロナ危機

「健康は、自由と権利の二つの側面を包含します。それは、人間が自らの生物学的状態と身の回りの環境の諸条件をコントロールする自律性の領域を指し示します。端的にいえば、健康は、生き生きとした自由の度合いに等しいのです。したがって、公共善に携わる人は、自由としての健康の公平な分配を保証しなければなりません・・・。」

–Ivan Illich, The Right to Useful Unemployment, London: Marion Boyars, 1978, p.  79, my translation.


  この引用文は、20世紀の社会思想家イヴァン・イリイチが1978年に刊行した「役に立つ失業への権利」からの一節です。この小さな本は、代表作『コンヴィヴィアリティのための道具』(1973)の「あとがき」という位置づけで書かれました。今読むと、新自由主義政策の下で社会の市場化が進んだ現代産業社会の命運を予見するかのような内容です。

 コロナ危機について考える時、私は他の研究書と合わせてこの本を読みました。そして次のような問題を考えるようになりました。


1.健康の多次元的条件に関する議論をどのように担保するか?
 まず、健康に関する公的議論の裾野が、感染症対策と医療崩壊防止の名の下に、疫学的なものへと狭められている点が気になるようになりました。
 近年の公衆衛生学、社会心理学、生態学分野の研究では、健康的な生活の条件は、医療へのアクセスや公衆衛生インフラの整備といった疫学的問題だけにとどまらない、社会生活の質全般に関わるものだと認知されています。
 重要視されているものの一つが、社会関係の豊かさと幸福感です。例えば、コミュニティの社会関係資本に恵まれていること、家族・学校・職場などの社会生活においてストレスや不安がないこと、将来に対する不安がないこと、政治や制度を信頼できることなど。これら様々な社会関係の質が、日常生活における幸福感や健康寿命に影響を与えるとされています(1)(2)。さらに、健康を大きく低下させる原因として、格差の拡大が問題視されるようになっています(2)。
 生態学的次元を見ても、石油、農薬、化学肥料に依存する工業的農業による土壌汚染や水質汚染、現代的な食生活による健康への影響が問題視されるようになっています。また、消費社会のグローバル化は、人・物の地球規模での移動を生み出しましたが、輸送にともなう温室効果ガスや微粒子物質の排出は、地球温暖化や大気汚染に大きく寄与していることがわかっています。地球生態系にかかる環境負荷は、めぐりめぐって人間の生活環境と健康の悪化を導きます(3)。
 本来、人々の健康維持を長期的に保障するためには、これら社会関係や地球生態系の質を高めていく必要があります。そのためには、経済のグローバル化によって深刻化した格差と地球環境破壊の是正に取り組む政策が最重要課題となるはずです。
 ところが、目下の感染症対策のために、健康的生活の多次元性が後景に退き、防疫という一点から健康が議論される傾向が強まってきてはいないでしょうか。
 もちろん、感染症対策は流行爆発と医療崩壊の防止という観点から必要なことです。そのような喫緊の課題と中長期的な健康維持に必要な政策は、決して相容れないものではないでしょう。
 しかし、防疫目的で導入された外出自粛や物理的距離(フィジカル・ディスタンス)を保つ方針が絶対視されてしまい、社会関係の健康に与える影響が過小評価されるのだとすれば、それもまた問題含みと言えるでしょう。
 例えば、自粛生活が長期化することでストレスや不安が溜まり、アルコール、ネット配信サービス、ネットショッピングなどの消費への依存が深まり、心身の健康が害されてはいないだろうか。物理的距離の維持にこだわり過ぎて、日常生活の最小限の社交すらも自粛し、他者に対する不安や不信ばかりが蓄積されてはいないだろうか。その結果、人間関係がこじれたり、重苦しい社会環境になったりして、そのストレスの解消のためにますます自己防御的な消費に走ったりしてはいないだろうか。社会関係の質の悪化は、めぐりめぐって私たちの健康を悪化させることになります。

 パンデミックの時代に、私たちの関心は防疫という一点に集中してしまいがちです。しかし、社会は多様な文脈と関係の織物です。疫学的な観点から社会を完全に「病院化」することはできません。健康的な生活の多次元的な条件を見失ってしまっては、コロナ以後の社会は、ますますバランスの悪いものになってしまうのではないでしょうか。

コロナ危機において、人間の健康、そして生命の維持に関する問題を多次元的に捉える余白を社会の中でどのように担保していけばよいでしょうか。


 2.自律性に関する議論をどのように担保するか?
 もう一つの気がかりは、自律性の問題です。感染症流行国では、封じ込め政策(ロックダウン)やそれに準ずる外出自粛措置が導入されました。その過程で、ロックダウンか経済かの二分法で考える風潮が現れました。
 そこで私が気になったのは、イリイチがかつて問題提起した自律性に関わる問題でした。
 人類の歴史を振り返ると、感染症の発生と流行には開発による野生動物の生息域の破壊と都市化、そして移動が大きく関わっています。1980年代以降の市場経済のグローバル化はこの動きを加速化し、未知の感染症流行が頻発しやすい環境を作ってきましたが、この間、現代人の生活はますます産業的生活様式の駆動力である「より多くの商品を生産するために働き、消費する」というサイクルに依存するようになっています。
 ロックダウンが各国で導入されたとき、私の目にはそれが、市場経済の他律性から国家の他律性への移行を強いられるプロセスに映りました。ロックダウンを選択するにせよ、経済を選択するにせよ、他律性が支配する世界に私たちは生きなければならなくなる。自律性について語る余地が、公共の議論においてますます居場所を失っていくのではなかろうか・・・そのことが気がかりでした。
 このままロックダウンを耐え忍んだとして、そのあとに経済活動の再始動がやってくる。しかし、それは再び市場経済の他律性へ逆戻りすることになりはしないだろうか。
 経済のグローバル化の影響下で非市場の生活領域は閾を越えて縮小しているため、現代人の多くは、自らの生活基盤を自ら作り出す力を失っています。そのような中、数週間にわたる休業要請で職や生計を失った場合、どうなるだろうか。もはや国家の社会保障と市場経済における不安定雇用に依存する以外に道は残されていないのではないだろうか。だとしたら、わたしたちは近い将来、社会を自分たちの手でつくる自由を本当に失ってしまうのではないだろうか。
 現代人には、国家の他律性と市場の他律性の間を振り子運動のように行ったり来たりする選択肢しか、残されていないのだろうか・・・。
 イリイチが言うように、健康が自律性の領域を指し示すものであるならば、コロナ危機において公共政策がすべきことは、防疫体制の整備はもちろんのことですが、それに加えて、人々が自らの生活環境を自らデザインする自由──自律性──が発揮される諸条件を公平に分配することではないでしょうか。そのためには、格差や環境破壊の是正をはじめ、産業社会の他律性を減らすことが重要です。

 以上に述べた問題関心から、7月初旬刊行予定の岩波『世界』8月号の論考では、コロナ危機をイリイチの自律性概念を通して考え、豊かさと健康の意味を同時に脱構築する道を模索してみました。関心のある方は、ぜひご覧になってください。

2020. 6. 29.


参考文献
(1)S・バルトリーニ『幸せのマニフェスト──消費社会から関係の豊かな社会へ』中野佳裕訳、コモンズ、2018年。
(2)R・ウィルキンソン&K・ピケット『格差は心を壊す──比較という呪縛』川島睦保訳、東洋経済新報社、2020年。
(3)S. Latouche, La décroissance, Paris: PUF Que sais-je?, 2019.