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人新世の社会デザイン学概論

今年度の仕事上での新しい出来事といえば、所属する大学院博士前期課程の「グローバル・リスクマネジメント演習」の一つとして、新科目「人新世の社会デザイン学概論」(春学期)を担当したことだ。

同科目の目的は二つある。第一に、「人新世(the Anthropocene)」をめぐる国際的に重要な研究を追いかけながら、現代世界が直面するグローバルリスクの複雑性を理解すること。第二に、対案として現れている社会デザイン・シナリオの諸潮流を整理・検討することである。

扱うトピックは自然科学から人文社会科学まで幅広く網羅し、各回では英語で出版された重要論文を読むことにした。例えば人新世に関しては、その科学的言説の代表であるPaul Crutzenの論文(e.g. Geology of Mankind, 2002)に始まり、Planetary Boundariesに関する代表的論文、不安症(e.g. climate anxiety, eco-anxiety, ecological grief)やウェル・ビーイング(e.g. planetary health)に関する重要論文などを扱った。いずれも近年の国際機関の報告書や科学誌において基本書として引用されることが多い論文である。

これら人新世の多様な問題群を把握したうえで、次に読んだのは開発とグローバリゼーションの構造を批判的に検証する研究である。例えば、国連「持続可能な開発」の政策言説の形成史を扱った論文、グローバル・フード・システムの政治経済学を検証する論文、COVID-19パンデミック下で深刻化した不平等について扱ったOXFAM報告書などがそうだ。これらの論文・報告書の読解を通じて、「緑の経済(Green Economy)」を軸に構築される「ビジネス・アズ・ユージュアル(Business as Usual)」の社会デザイン・シナリオの矛盾について理解を深めることができた。

最後の数回で扱ったのが「トランジション・デザイン(Transition Designs)」と呼ばれるオルタナティブな社会デザインに関する論文である。例えば、アグロエコロジーの理論と実践を、 幸福度と社会関係資本を高める公共政策デザイン、 脱成長(décroissance)の国際的研究動向をまとめた論文、フェミニズムの視座から「公正な文明移行」を提案するUNWOMENの報告書などである。

この演習の最大の焦点は、人新世をめぐる諸言説が社会デザインの理論的枠組みをどのように再フレーミングするかという認識論的問題である。本演習では便宜上、プラネタリーな危機の加速化に対する反応として「ビジネス・アズ・ユージュアル」と「トランジション・デザイン」の二つの社会デザイン・シナリオの思潮を比較検討した。各シナリオは異なる経済・科学・技術パラダイムに立脚しており、そこから導き出される問題の捉え方も異なれば、対案も大きく異なる。したがって各シナリオが提案する公共政策の妥当性と可能性を検討する際には、政策の根底にある思想的土台を明らかにしながら議論を進めていった。

人新世というトピックは領域横断的な知を必要としている。各分野で提供される概念は異なる解像度を有しており、それらを繋ぎ合わせて「Planetary-Global-National-Local-Body-Mind」ないしは「humans-nonhumans」の重層的な連関を理解するのは骨が折れる作業だ。社会デザインというだけに、最終的にこれら多様な問題群を制度や公共性の議論に落とし込めるのがポイントとなる。

今年度初めての試みであったが、大きな学びがあった演習だった。「人新世の社会デザイン学概論」ーー今後も探求していく価値のあるテーマだ。

中野佳裕

2023. 07. 18.


図1:プラネタリーな次元の侵入(作成者:中野佳裕 *講義資料より抜粋)


図2:社会デザイン学の新たな問題群(作成者:中野佳裕 *講義資料より抜粋)

Voeux 2023: 言葉を探す旅へ

2022年は、パンデミック、戦争、気候変動の三重奏で混迷を極めた一年でした。研究者として向き合うべき課題も複雑化し、日々刻々と変わる世界情勢について知識をアップデートしながら、開発とグローバリゼーション研究における最新の問題群(人新世、人工知能、食とアグロエコロジー、都市デザイン、コモンズ、メンタル・ヘルス etc)に関する基礎研究を重ねていきました。

研究を続けていると、人類が直面している危機のスケールの大きさ、構造の複雑さ、変化の速度に圧倒されます。また、それらを伝え論じる情報・言説・学説の洪水に思考が追いつかなくなることがあります。

そんなとき、古典文学やクラシック音楽の楽譜に触れることで、正気と冷静さを取り戻すことができました。

文学のジャンルとして特に好んで読むのは、詩や戯曲です。今年の秋から冬にかけては、仕事の合間を縫って、「A Mirror for Magistrates」や「The Spanish Tragedy」などの中世・ルネサンス期の英語詩や戯曲の魅力を再発見したり、シェイクスピアの悲劇やT・S・エリオットの詩集を原文で読んだりしました。シェイクスピアもエリオットも、十代の頃から好きな作家で、私にとって最も親しみのある英文学作品です。

クラシック音楽に関しても、メニューヒン、エドワード・W・サイード、ダニエル・バレンボイムの音楽論を久しぶりに読んだお陰で、新鮮な気持ちで向き合えるようになりました。好きな作曲家の楽譜を読むことで、演奏を聴くのとはまた違った距離感で楽曲と向き合い、その構造を理解することができます。子供の頃に音楽を習っていた時、当たり前のように実践していたことですが、その大切さや楽しみを久しく忘れていました。

楽譜の利点は他にもあります。音楽を聴く時間を持てない時でも、楽譜を読めば頭の中で楽曲を再現できる点です。仕事で忙しい日々が続いていましたが、楽譜を本のように読むことで楽音の世界に没入し、精神の自由を感じることができました。

詩や楽譜は私の思考と感性の土壌を育む大切な言語なのだと、改めて知らされた一年でした。

2023年は、詩や楽譜と向きあう時間をもっと増やしたいですし、そのような言葉のエクササイズの中から、自分なりの思考の方法、そして対象への接近法を発明できればと思っています。

そして可能であれば、素晴らしい書にも触れたいですね。

言葉の洪水に溺れないためにも。

中野佳裕

2022.12.30